2013年5月31日金曜日

五月も終わり



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(物干し竿にアマガエル)
今年もホトトギスが渡ってきました。
先週、小雨が降る夜明けごろ、よく響く声で「到着した!」と
宣言しているようでした。
ホトトギスというと『夏は来ぬ』という歌を思い出しますが、
歌詞にはホトトギスが忍び音をもらすというふうにあります。
その夏に初めて聞くホトトギスの鳴き声を「忍び音」と言うそうですが、
あの甲高い声がなぜ「しのびね」?…と不思議です。


 さまざまな逸話があるホトトギスですが、一番記憶にあるのは、
日本昔話にでてくる「ある兄弟の話」です。
心がひねくれたしまった兄が、心優しい弟を疑って命を奪ってしまった末、
いつの間にかホトトギスになり、反省をして「オトウト恋しや!」と
泣き叫んで暮らすという内容でした。


 なんだか、ど~んと重くなる話で、取り返しのつかない罪というものを
幼い私は感じたのか、とにかく憶えています。
この昔話を聞いたのはまだ10歳くらい。
けれど、実物のホトトギスに出会ったのは20年後の大人でした。
「ホンチョンカケタカ!」
と聞こえる声を振りまいて、初夏に渡ってくるホトトギスに会うと、
もうすぐ梅雨だなという気持ちになるのでした。
 東南アジアからはるばる渡ってきたホトトギスは、ウグイスたちに托卵して夏を日本で過ごします。
 卵を托された上に、自分の卵を排除されてしまったウグイスたちはあの大きな声をどんな気持ちで聞いているのでしょうか。
 鳥たちには感情などなく、本能で卵を温めてかえしているのだからくやしいも悲しいもないはず、と言う方がいますが…自然の中は人間という生物になどわからない秘密があふれていると思います。




2013年5月23日木曜日

『なつかしさ』の縮尺



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(初夏なのに 庭で咲く秋桜)

 小学3年生の女の子たちが、1年生の教室が並ぶ廊下を歩きながら、
「うわ~なつかしい!1年生のにおいがする!」
「ホント、なつかしいね。」
と大人びた口調で話していて、はっとしました。
(この子達は、2年前がすでに懐かしいんだな…。)
自分が懐かしいと思う記憶は、一体何年前だろう?と考えました。
少なくとも、2年前はまだつい最近です。
5年前のことは? 懐かしいまでいっていません。
じゃあ、10年前くらいかな? 10年前も、随分前の話だけど
それほど懐かしくはないような気がしました。


 私の場合、約15年ほど前のことが「懐かしい」ようです。
年老いた父母などは、10年前のことを「この間…」と最近のように言いますから、
「懐かしい」は幼少時まで遡上します。
 

 三角スケールという物差しは、100分の1~600分の1までの6種の縮尺
で測れる便利な物差しです。
記憶の縮尺が、年とともに大雑把になってしまうのなら、三角スケールの縮尺を
どんどん大きくするように、細かな目盛は間引かれてしまうのでしょうか。
けれど、実際は物差しのように単調ではありません。
ある年代は100分の1縮尺で思いだせるのに、ある年代は600分の1程度しか憶えていない…
脳と心は、本人の無意識に思い出保存の優先順位を決めているのですね。


 私は日々の日記は書いていないのですが、旅に出た時に心が動くことがあったりすると、その思いを書き留めてあるノートが10冊ほどあります。物語や絵の素として大切な資料になります。
 そういえば、ノートを読み返してみると、記憶にない事件が思いがけず見つかります。
あと10年後、20年後にどれだけ自分の縮尺が異なっているのかちょっと怖いですが、
反対に、自分が書いたことなのに記憶になくて、新鮮な気分になるのも面白い気がします。